どっちが本当?徳川家康のお墓の謎〜日光と久能山の東照宮〜
徳川家康公が亡くなってから400年記念の年だった2015年もあとわずか。
今年に入り様々なメディアが徳川家康公について取り上げていますが、歴史好き、江戸時代好きの方はもちろん、そうでない方々もこれを期に家康公所縁の地やお墓参りなどをしてもいいかもしれません。
今回、私が色々と調査をしたところ、家康公のお墓といわれている場所がなんと2つあることがわかりました!久能山東照宮(静岡県静岡市)と日光東照宮(栃木県日光市)です。
一番いいのは二つともお参りすることでしょうが、なかなか機会が作れないことも事実。
さて、家康公のお墓参りはどちらに行ったら良いのでしょうか。
史実をもとに、私なりの考察をまとめてみました。
家康公のご遺言に注目。勧請とはなにか
久能山と日光山のどちらに家康公の御遺骸が御安置されているのか、については諸説ありますが、日光東照宮とされているのが一般的です。
全国各地にある東照宮(東照大権現=家康公を祀った神社の総称)の総本社と目されていますし、世界遺産にも登録されるその建築様式は圧巻の一言。特に陽明門は「一日中見ていても飽きない」と評され、日暮御門(見ているうちに日が暮れるの意)と別名がつくほどです。
しかし歴史上の資料や出来事を見ると、どうやらそうではないことが分かってきます。
まず久能山と日光山に二大東照宮がある経緯は、家康公の遺言に端を発します。
数ある遺言中、該当する部分の概略は下記の通りです。
「私が臨終となったら身体は久能山へ納め、葬儀は増上寺にさせて、位牌は三河の大樹寺にたてなさい。一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて勧請しなさい。関八州(関東)を見守るから」
このように家康公は自分の墓として久能山を指定しています。
日光山へは「勧請」つまり家康公の分霊を移して祀るようにと指示しているのです。
確かに歴史上久能山から日光山に「宮遷し」が行われ、神柩も移されていますが、これが移葬を示すとは言い切れません。
神柩が分霊を表していてもおかしくないからです。
個人的には「小さな堂を建てて」にも注目ですね。
この遺言を実行した二代将軍秀忠公が日光山に建立した神社は、現在のものに比べると大変質素だったようです。
現在まで伝わる日光東照宮の荘厳な建築物は、孫である三代将軍家光公が行った大改装によるもの。
つまり秀忠公は家康公の遺言を細部に至るまで忠実に守った可能性が高く、そうなると御遺骸を移したのではなく勧請したのだと思われます。
まして徳川将軍家の埋葬法は土葬です。特に家康公は西を向いて立ち姿で埋葬されたと伝えられています。当時まだ政情が不安定だった西日本へ、死後もにらみをきかせるためだったとか。
久能山から日光山への神柩の移動は2週間ほどかけて行われたと記録が残っています。
一周忌後土葬のお墓を掘り起こして、暖かくなる春に御遺骸を14日もかけて移動すると想像すると……。
不遜な表現で恐縮ですが、私だったら絶対しません。されたくありません。
徳川宗家が墓参するのは久能山
もう一つ、決定的な事実があります。
今に伝わる徳川宗家はもちろん家康公の命日である4月17日に墓参されます。
この墓参、場所は久能山です。
日光には例祭に参加されても、奥宮(日光山で家康公のご遺体が納められているとされる場所)にお参りはされません。
もし日光山に御遺骸が一部でも納められているとするなら、日光東照宮の奥宮にも墓参されるのではないでしょうか。
徳川宗家には何か根拠となる伝承があるのかもしれません。
ちなみに家康公の命日である4月17日に例祭が行われるのは久能山。日光東照宮の例祭は一ヶ月遅れの5月17日。
この区別にも意味がありそうですね。
神聖なお墓である久能山東照宮。権威の象徴である日光東照宮
ともに家康公を祀る久能山東照宮と日光東照宮。
神聖な社である両墓は、今後も学術的な調査が行われる可能性はほぼありませんから、事実がはっきりと示されることはないでしょう。
しかし上記の理由から、家康公の御遺骸が納められている場所はおそらく久能山だと考えられます。
正式に家康公のお墓参りを志すなら久能山東照宮をお勧めします。
だからといって日光東照宮の価値はまったく下がりません。
家康公直々の遺言で分霊され、関東を見守る遺志を込められた社。
さらに家光公が行った改装を経て、徳川家の権威を世に示す象徴となりました。
民衆にも親しみを持って愛され、今では世界的に有名な遺産の一つです。
日光東照宮には世の平和と永続への祈願が満ちています。
家康公の神聖な墓所である久能山東照宮。
徳川幕府の権威と平和への祈願を顕す日光東照宮。
どちらも日本の歴史を今に残す貴重な文化遺産です。